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No13 2003年5月17日発行

「支援費制度が始まりました」 ピア理事 川田 和也

平成15年4月1日より「支援費制度」が施行されました。これまでの「措置制度」から、新たな仕組みに移行したわけですが、具体的にどのように変わったのでしょうか?

「措置制度」は行政がサービスの受け手を特定し、サービス内容を決定していましたが、「支援費制度」では障害当事者(以下利用者)自らがサービスを選択決定し、サービスを利用する仕組みになります。より利用者の自己選択・自己決定が尊重され、事業者と直接契約を結ぶことで対等な関係に基づいた、利用者本位のサービスの提供が行なわれる仕組みとなったのです。

実際、利用者の生活はどう変わったのでしょうか?措置のときと比べて、時間の増えた人、減った人。使いやすいと感じている人。使いにくくなったと感じている人。いろいろいらっしゃると思います。使いやすくなったという人の多くは、派遣時間が措置のときと比べて増え、自分自身の生活を上手く、プロデュースできている方々だと思います。しかし、使いにくくなったと感じている人達の多くは、派遣時間が大幅に減らされたり、措置のときには公的に守られていた部分(措置時・ガイドヘルパー:現・移動介護)がカットされて、プライベートでの外出が大変しづらくなったと感じているようです。外出しづらくなったというよりは、移動介護時間のカットにより、もう、一切の外出が出来なくなったと勘違いをされた人もいたようです。何故、そういった事態が起こっているのでしょうか?不満の声は、措置のときよりも、むしろ支援費になってからの方が、多く有るように思います。

支援費制度が「利用者本位のサービス」となるためには、利用者自身が主体性をもち自身の選択でサービスを、事業所を選んでいかなければなりません。今抱えている不便さや不安を解消するには、「利用者自身が自分自身の生活をプロデュースし、そのために事業所を動かしてゆく」といった動きにならなければ良いサービスを受ける事は出来ないのではないでしょうか?ピアの存在意義が問われている時だと思います。

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「新会員になって」 末次 千恵子

私がピアに出合ったのは1人の友人からの紹介でした。

3年前に脳梗塞で右半身麻痺になり身体障害者になってしまいました。車を運転していつも出かけていた私はそれからはどこかに出かけたいと思っても父に頼んで連れて行ってもらわないと どこにも行けなくなりストレスがドンドンたまって行く一方でした。そんな時にピアさんを紹介して頂き、初めてピアさんとこに行った時なんと皆さん暖かいんでしょう!!と・・・ ・・感じました。

ここは家の中とは大違いでいろんな方と知り合いになれていろんなお話が聞けてお友達が増えて今までの生活とは違う生活がおくれると・・・ それからはすぐに正会員になり移送のサービスも受けれる様にしてもらい、父に気兼ねなくどこにでも行ける様になりストレスも感じなくなりました。1人で悩んでたりどうせ出来ないんだからとあきらめかけてたあの頃がウソの様で今は楽しい生活を送っています。 さをリ織りも教えてもらい、製縫の仕方も習ったりと少しずつですが近づく回数が増えてきました。今度は家で出来る何かを皆さんと協力して探し出したいと思う今日この頃です。

仕事にしても以前は美容師をしていたんですが手が動かないのではどうしようもありません!!それでも今の自分にでも何か出来る事があるのではないか?!と考えるようになりました。どうせ私なんか!と思ってたあの頃とはさようなら! 卒業です!! 今42歳これから先はもっとある! じっとしてなんかいられない! ない!

これから暖かい季節になります。あなたも1歩前に出てみませんか?4月は新スタートの季節です。1人で悩んでないで、皆で協力すれば何かが、出来るはずです。さあ、皆で小さな事でもいいんです。 何か1歩前に進みませんか?新しい何かがきっとあなたを優しく迎えてくれるはずです。そう、私は信じています。新しい自分を★☆★

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「縁あって」 宇野 早苗

このたび、ピアで週に1、2日働かせてもらうことになりました。宇野早苗です。私は、脳性マヒの障害者です。プロフィールをと言われても、何を書いたものやら...。

体を動かすことが大好き。ここ2、3年、スポーツクラブのダンスの教室にはまっています。本を読むこと、大好き。ピアノも、絵を描くことも、編み物などの手芸も、突然、やりたい気持ちがわいてくると、集中して、はまってしまう。今は、何より、子どもが大好き。子どもと一緒にいられる仕事がしたいなと、勉強中です。

年齢は、30歳。子どもに「おばちゃん」と呼ばれるのには、ちょっと、まだ抵抗がある。私が実家を出たのは、県外の大学に進学するためでした。両親が共働きで、高校生時代、学校から帰って、夕食をつくったり、洗濯物をたたんだり、家事をしていたし、知らない土地、新しい環境への不安はありましたが、家を出て暮らすことに特にとまどいはありませんでした。(むしろ、妹たちはちゃんとやっていくのか、心配でした。)

就職して山口に戻ってきてからも、実家から通えないところだったので、一人暮らしでした。1度の転勤をはさみ、7年間働いた後、仕事をやめて実家に戻ってきてから、ちょうど1年。縁あって、ピアで働かせてもらうことになりました。ピアって、まだ、よくわからない。私のしたいこと優先で、週に2日でも、ことによると1日でもいいということなので、働いているといえるのかしら?と思いながら...。みなさん、どうぞ、よろしくお願いします。

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「移送サービス運転手の戸根 章さんについて」

戸根 章さん(50代)は、昨年の12月からピアの事務所の職員として移送サービスを中心に働いてもらっています。趣味は、海に行ったり山に行くこと。特技は、短歌、水泳、釣り、山歩き、特に天気 図を見て天気を予想するのが得意です。それと、誰とでも協調性を持って付き合うことが出来ます。

さをり織る 障害児のそばに立ちて 動き重なる 母の指先

※ 上の句は手織りの準備を体験した戸根さんの一句です。

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「私の体験 」 ピア理事 亀田 雅広

私は、今年になって彦島の自宅からヒューマンネットワーク ピアの事務所まで雨の降る以外は電動車椅子で通勤しています。その中で、歩道や些細な所や何気ない人達の行動にバリアがあるのを常日頃から感じています。

先ず、私がいつも来るたんびに思っているのが歩道です。私も緊張とかが入ったりして電動車椅子の運転も上手いとは言えませんが、不便な所が沢山あります。歩道によっては「でこぼこ」になってたり、細くなってたり、斜めになってたりしています。 歩道で「でこぼこ」になっていて急に後ろに転倒した事が、1、2回程有ります。1つ間違えたら後頭部を打っていたかも分りません。

又、バス亭などで細い斜道があります。そこを通るのに斜めになるので怖い思いを度々します。思い切って車道を走ろうかと思う時が多々あります。

その他、歩道に車を止めていて電動車椅子が通れないから、その人に言って車を退かしてもらったり、居ない時は遠回りをして行くしか方法がありません。この前もありました。車が止まっていて遠回りして行こうかとしている時、ある小父さんが「ちょっと待っとき」と言ってくれ運転手さんに注意してくれ「みんなの事も考えて駐車しないと迷惑するからね」と言ってくれ又、先の先の方まで言いに行ってくれました。

電動車椅子で通勤する様になってから、人ごみの中で人とぶつかりそうになったり、駅のドアで何時も半開きで電動車椅子が通るのが擦れ擦れの所で当たったりした事はあり、ハラハラする時があり大変な事は多々あります。

又、その反面良い事もあります。様々な人との触れ合いが持てたり、電動車椅子に乗って移動する様になってから行動範囲が広くなりました。休みの天気の良い時、何気なしに電動車椅子で出たり、友達の家へ遊びに行く機会も増えて来ました。

これからも、電動車椅子を自分の足の一部として活用してどんどん外へ出て行きたいと思います。だからこそ、誰もが住みやすいくバリアフリーな街にみんなが心掛けて欲しいと思います。

私は、思っている事があります。障害者が住みやすい街になれば絶対に障害者では無く、お年寄り、病人の人達にも住みやすく優しい街になると思います。私も臆病な方で偉そうな事は言えませんが、それに私達が出る事によっても社会が変わって来ると思います。

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「癌の不安を乗り越えた友人」 鍬野 保雄

私の友人知人で何人か癌を患った方が居られます。とてもショックだったと思います。もし自分だったら、どんなにか落ち込むことだろうと思います。その方たちは手術を受けたり、あるいは民間療法によって、今は皆さん日常の社会生活を送れるのですが、ふと再発の不安にさいな苛まれることもあるかと思います。

そのうちの一人の方がこのたび癌患者ばかりが100人以上集まる場に参加して心の憂さを晴らし、生きて行く気力を大いに得てきたと話してくれました。癌にかかって不安にさいな苛まれ眠れぬ夜に苦しみ、のどを通らない食事、人生がすっかり暗く見えたこともあったであろう人々が一同に集まりお互いに経験に基づく話し合いが行われたことが大きな転機になったのでした。

重い障害を持つ人も自ら集い、同じ思いを共有し、いろんな生き方を学び合う場が必要だと思います。人が集まり開かれた心で話し合いが行わることでお互いがパワーを得るのだと思います。

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「ピアと私Vol13」 嶋田 靖子

振返ってみればピアに入会したのは、平成13年頃だったと思います。病気による障害「体幹起立位保持困難(2級)」自分でも理解出来ない様な状態、其の中で「残った機能を生かして、さをり織をしてみませんか」と宮川さんに進められ、以前から色彩に関心があった私は躊躇なく始めました。

筬に縦糸を通し、選んだ横糸で織りなすことは楽しいことであり、また苦しいことでもありますが、創り上がった作品は、口では表現出来ない私の悦びです。

人生の最終段階に入り、自己表現しながら取り返しつかない一日一日を大切に生きたいと思います。

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