最近、若い時期に交通事故やスポーツ事故が原因で、頚髄損傷のような重度の障害を負う人が多くなってきているという話しをよく耳にします。若い時期に重度の障害を持つということは、生きていく上で二重の困難を持ったということになるのかも知れません。成人後20年、30年の年を経て、社会的な地位や家族に対する責任を担っている人が 重い障害を持つことも困難な状況を招くことに変わりはないのでしょうが、社会体験も乏しくこれからの自らの生きる方向を探し出そうとする、中学・高校・大学などの時期に障害を持つということは、30代や40代で障害を持った人よりも、生きる道筋を求める上で困難を伴う事になるのかも知れません。
たとえ重い障害を持つ者であろうと、高校・大学と卒業し就職していくというコースをたどる事が出来るなら、その過程の中で、それぞれの生きる方向を定めていくことが可能でしょう。しかし、現在においては障害が重ければ・重いほど、そうしたコースを進むのが難しいという現実があることを否定できません。
従来、障害者それも中途障害者が現実的な可能性を見い出せない場合には、社会人として生きる希望も・目的も失い、自宅や施設に閉じこもりの生活になり、その成長の可能性が疎外されてしまうというきらいも有りました。さらに、両親や家族など介助者の高齢化に伴う不安を始めとして、経済・住居などの様々な障害者を取り巻く問題に危惧しながらも、「いつかは誰かが世話してくれるだろう、問題を解決してくれるだろう」というような他人任せの障害者は、決して少なくないと思います。私も、そうでした・・。
しかし、現状が私にそうした姿勢でいる事を許してくれなくなったのです。今の私の生活は 高齢の親に支えられています。考えたくはないですが、親がいなくなった後の事…その時、自分はどうなるのだろう?自分はどうやって生きて行きたいのだろう?差し迫った問題なのです…。
これまでの社会通念で考えると、私は身体障害者療護施設に入所するしかなかったのかもしれません。しかし出来るなら、子供の頃から住み慣れたこの街の中で、地域の一員として生きて行きたいのです。私は施設を否定する者ではありません。むしろ社会資源として上手く利用していきたいと思っています。事実、今まで家族が旅行に行く時など施設のショートステイをたびたび利用してきました。そして、そのショートステイの経験からそこに一週間以上いると、その制限的な生活に抑圧を感じ耐えられなくなります。やはり私にとって施設は、「過ごす場所」であっても、「暮らす場所」には成り得ないのです。
では、自分が地域の中で暮らして行くには何が必要か・・・?一番は、やはり安定して・使いやすい介助制度の確立です。介助が必要な重度障害者にとって、安定した介助体制が「生活の質」を確立する基盤となるものと思います。私の介助は以前、食事・着替え・移動・入浴とすべてを家族の介助に依存する生活でした。今はそれらの介助を毎日、朝・夕・夜のホームヘルパーをメインに・訪問看護・デイサービスを利用して、当面の目標である家族の負担軽減に向かっています。
またある意味、私自身も精神面ではとても楽になったのではと…最近思うようになりました。家族だと「今頼んでも大丈夫か?」「これ頼んでも体、大丈夫か?」と遠慮が先に立つ事でも、契約介助者には気兼ねなく頼む事が出来ます。介助時間内という制約はありますが、その時間内であれば、気兼ねすることなく時間一杯自分の為だけに行動が出来る訳です。そして家族を束縛しているような後ろめたさから少し解放できたように思います。
次回へ続く
この度、サンデンバスと汽車を利用してピアの事務所にガイドヘルパーさんと行って見て、バリアフリー化されていない事に気が付いた。
先ずサンデンバスで、行って見た。吉見駅からのバスには乗り口が階段になっていて車椅子の人達には車椅子共に乗る時は、利用者が先ずヘルパーさんが抱えて次に車椅子を持って乗るしかない。それでは時間が掛かる。それに車中は狭くてなかなか車椅子のスペースが無い。バスが下関駅に着いて下関駅のサンデンのバス、バス停からタクシー乗り場まで行く時、ガイドヘルパーさんと長く歩いた。タクシーは乗れたがバス停からタクシー乗り場まで長く歩かないといけない。もうちょっとバス停から下りて直ぐ乗れる所にタクシー乗り場が有ったら良いと思う。帰りのバスは、乗り口が狭くて車椅子で入るのには狭かった。所要時間はバスでは往復で1時間掛かった。
次に汽車を車椅子で利用して見た。吉見駅に入るのに段差が二段あった。それでは車椅子は入り難いのでガイドさんが抱えて上げてくれた。行く時の切符の自動売り場は歩いて利用したが車椅子には高過ぎるかな?下関駅行き乗り場に行く時は鉄橋を渡って階段を登って下りて行かないとならない。吉見駅は週末には無人駅になり駅員さんが居なくて、先に車椅子をガイドさんが下りの乗り場に置いて、後から僕が行った。少し歩ける僕だって階段から落ちたら転ぶので車椅子の人の大変さが分かる。下関に行く汽車に乗って見ると、鉄橋がある駅は吉見駅と安岡駅だけだった。下関駅には20分間で着いた。
下関駅に着いてガイドさんが車椅子と僕を下ろして階段の方にいっていると駅員さんが「手伝いましょうか?」と言って、車椅子を抱えて下ろしてくれた。下関駅は今バリアフリー化にしていてエスカレーターの取り付け工事中でまだエスカレーターは動いていなかった。駅員さんが改札口まで車椅子を下ろしてくれた。改札を通り、帰りの切符を買っておこうと思い、今度は車椅子で利用して見た。そしたら高すぎて利用し難かった。
下関駅からピアの事務所に歩いたら10分位で着いた。帰りは3時半の汽車で帰るので3時前に事務所をでた。今度は改札口の今度新しく出来たエスカレーターを使いたいので駅員さんに言って使わせて頂いた。そしたらそのエスカレーターの乗り心地は良かったが僕の一人の為に整備して通行止めにする為に他の皆さんが階段を上っていた。そこにまだ誰もが使えるバリアフリー化していないと思う。階段で車椅子は、工事の方々が手伝って下さって、3時半の汽車で吉見に帰った。吉見に着いて下りの汽車と同時に発車するので、ゆっくり下りる事が出来た。下りる時、他のお客さんが心配してくれていた。
今回、下関の交通機関を使って見て、バリアーがまたまだ有ると感じた。いつか誰もがバリアーが無くて楽に町へ出かけられるバリアフリーな下関の町になって欲しいと思う。
*ガイドヘルパー制度の枠組みにおける、公共交通機関での移動は利用者にとって非常に負担が大きいことがわかります。これを受けて、当会では移送事業を展開します。
障害当事者から外出の際の公共交通機関が不便であること、経済的負担の大きさ、体力的に厳しい等の問題をよく耳にします。特に重度の全身性障害者に関しては、移動手段が限られ、精神的・身体的に大きな負担が掛かります。障害者の社会参加を促進するためには公共交通機関の十分な整備が必須ですが、今のところ現実的に厳しい状況です。
そこで、当会ではそのような外出時の移動が困難な方々を対象に移送サービスを実施したいと思います。まず手始めとして、当会の障害当事者を限定に移送サービスを行います。利用されたい方は、ピア事務所までご連絡ください。
このたび8月1日より長本京子さんが、事務所スタッフとして加わります。長本さんは、ヘルパーとして長い間経験をつんでおられますので、ピアのヘルパー派遣業務においても今後心強いことだと思います。
声の大きい元気な女性です。事務所開設のときにもお祝いのトピアリーをプレゼントしてくださった方として、記憶に残っているかもしれません。どうぞよろしくお願いします。
私たちヒューマンネットワーク ピアは障害がある人も、ない人も共にいきる仲間として、「この街のさまざまなバリアをなくそう」と障害当事者の立場に立った生活支援をさまざまな角度から行っています。活動のすべての根本はその個人々々がいるということ、生活を行っているということ=命の重さの認識に他ならず、活動を通して広く市民の皆様にご理解いただくためにも 心のバリアフリーを訴えることの重要性を痛感する日々です。
この度9月14日に下関市民会館中ホールにてインディーズバンド Nanakaja をお招きしてのコンサート Live "京都からの風『ありがとうこの瞬間』〜Nanakaja Live〜"を企画しました。Nanakaja(ナナカジャ)は現在京都のライブハウスで活躍するバンドですが、音楽を通して「命の重さや尊さ」を伝えようとするその姿勢や熱い思いは、ピアとも相通じるものがあります。今までのピアの啓発活動は真正面から障害問題に取り組むものでありましたが、今回は少し趣向を変えて、優しく心地よい唄を共に感じあうことで、今一度「縁あって出会うことができたこの瞬間の喜び」「命の重さ、尊さ」を、障害がある人もない人も共にわかりあえればと願っています。
次いで、当日9月14日まで2ヶ月を切るという時間しか残っていない状況ではありますが、運営・企画の段階から、広く多くの方々と共に考えてみたいと思い、実行委員会=やってみらん会を開催することとなりました。ネットワーク…?出会い…?いえ、当日だけ手伝うよ…でもいいのです。なんらかのつながりを、その第一歩をつなげるための手を差し伸べて下さい。性別、年齢、制限なし。音楽が好きな人、下関をおもしろくしたいと考える人を求めています。面白そう、やってみようかと思い立たれた皆様、是非「Nanakaja Live やってみらん会」に参加下さい。
僕はピアに出会う前の約6年もの間、引きこもりに近い生活を送っていました。
そんなある日、ピアに出会ってから自分の生活は一変しました。入会して、わずか3ヶ月ほどで、代表に就任。しかも、障害ヘルパー派遣を目標に、(障害ヘルパーをこの時初めて知りました。)利用者の声が届きやすく、いかに利用者が使いやすいサービスにするかという、それまでとは180度違うものを創っていこうとする時期でした。
入会してしばらくの間、自分のポジションが重荷で、あきらめと挫折の連続の中、生まれ出る感情はマイナス思考ばかりでした。そんな中でも、何度も何度も周囲の人たちに支えられながら、少しは強くなった気がします。
ピアがこれから飛躍し、本当の意味での利用者本位のサービスを提供していくために、自分達の経験の無さを克服し、人間関係を構築するために、必要不可欠な事と思いますので、会員・非会員の枠を越え、ご指導ご鞭撻賜りますようお願いします。