障害を持つ個人としての立場から、今の私の現状や体験・考えを述べてみたいと思います。
まず、私の障害や、私の事についてお話しをさせて頂きます。私は、中学時代に水泳部に入部しており、3年生の2学期が始まった日の放課後、これは3年生にとって最後の部活となる日でしたが、その時リレー練習の引継ぎの際、飛び込んだ時に首を骨折してしまい「頚髄損傷」という障害を負いました。飛び込んで水中ですでに意識はありましたが、泳ごうとしても、水の上に浮き上がろうとしても体に力が入らず、その時すでに自力で手や足を動かすことが出来ませんでした。
その後、救急車で厚生病院に運ばれ、医師の懸命な治療のおかげで、幸い一命をとりとめることは出来ましたが、昨日まで自由に動かせていた手足が全く動かず、それに加え呼吸困難を起こしていたので、気管切開をしていた為、言葉を発する事も出来ません。一夜にして自分の体の状況が変わってしまい、いったい自分の身に何が起こったのか、何がなんだか解らずパニックのような状態でした。
40度近い高熱が1ヶ月以上続き、また何回かの激しい呼吸困難など命の危ない局面などもあり、家族をはじめ多くの人に気をつかわせ・心配させましたが、序序に体の状態も安定し、面会謝絶も解かれると、友人達が見舞いに来てくれるようになり、精神状態も落ち着いてきました。ただ自分の障害については知らされず、必ず完治するものと信じていました。
そして受傷して4ヶ月後の翌年1月、本格的なリハビリテーションを受ける為、当時日本で最も進んだ脊髄損傷治療とリハビリテーションを行っていた、小倉の九州労災病院に転院する事になりました。そして、転院してしばらく経ったある日、「肩から下のマヒは完治すること無く、一生、車イスでの生活を続けなくてはならない」と知らされました。
当初はその言葉の意味も理解できず、また信じてもいませんでした。しかし、周囲には同じケガをした入院患者ばかりです。そんな彼らを見ていると、自分の体の状態を直視し、受け止めざるをえない状況になってしまいます。これはまだ15歳の子供であった私ですが、大変ショックでした。全身がマヒして、手も足も動かない人間が、どうやってこれから生きて行けばいいのか?自暴自棄になり、見舞いに来てくれた人に、「帰れ!」と怒鳴ってしまった事さえあります。
幸い、私は脊損ばかりの病棟にいましたので、同じ境遇・同じ経験をしてきた方達の、障害を受け入れるまでの葛藤や苦悩の話しを聞いたり、また相談にのって貰っている内に段々と障害を受容して行くことが出来ました。今でいうピア・サポートのようなものと言えるかもしれません。
この病院で得た私の負ったケガや障害に関する知識、看護・介助の方法、そして何よりも同じ障害を持つ人達と知り合えたことは、その後の障害を持って生活して行かなければならなくなった私にとって、とても貴重なものとなりました。
次回へ続く
※今号から、当会会員の末田俊也さんの手記を、長期連載(約10回シリーズ)にて、続けて参ります。彼の、「障害」に対する考え、体験、これから先、彼だけに限らず、支援や制度を必要とする障害者の人たちが、生活していく上で必要なものとは何なのかといったことが、切実と語られています。それに対して、自分たちが一体どうすれば良いのかが、これから先の連載にて伝えられていきます。(三浦)
身障のホームヘルプサービスの利用者が、65歳を超えると介護保険へ移行する事になっているため、かねてから申請を検討中だった事と、会員のお母様に対しての派遣依頼と、同じく会員の70代の方から派遣の相談を受けた事により、介護保険指定格の申請の必要な状況になりました。
2月中旬に、県の介護保険の担当の方に相談をしたところ、「3月1日付けで下ろしましょう。」という返事をいただき、下旬には県の介護保険課の担当の方と豊浦健康センターの方の視察を受け、認証前日の28日まで、電話や電子メールで、色々と相談を受けながら諸書類をまとめていき、3月1日の昼前に県の担当の方から「認証が下りました。」と連絡が入り、晴れて介護保険の指定事業所となりました。
これにより、障害ヘルパーと介護保険の二つの指定事業所格の指定を受けるようになり、より一層の責任感を感じていますが、当会の理念である「事業所の都合に合わせた派遣ではなく、利用者の意向に沿った派遣。」を忘れずに、努めてまいります。
現在、9月14日土曜日に予定している、ナナカジャライブ公演の準備を進めています。
ナナカジャとは、京都のライブハウスで活躍するインディーズバンドで、ジャズ、ポップ、ソウル、フュージョン等幅広いジャンルの音楽を通じて「命の重さや尊さ」を伝えています。そこには、ピアの活動に通ずるものがあり、そんな彼らとこの度、縁あって下関でのライブ公演が実現しました。今までのピアの様々な啓発活動は、福祉に関する障害者問題等に限られていました。そのため、関わりを持つ人も限定され、なかなか広く浸透しませんでした。
そこで、今回は趣向を変え、今まで障害者との接点が無かった人や興味はあるけどどう関わったら良いか分からないといった人達が、参加しやすい企画を考えた結果、音楽(ナナカジャライブ公演)に行き着きました。音楽とは、不思議なもので人々の心を一つにする力があります。その中で新たな出逢いが生まれ、泣いたり、笑ったり、そんな素直な感情を実感できればと思います。
人間関係が希薄になっている現代社会だからこそ、この企画が大切な空間になってほしいと思います。
去る2月9日から10日にかけて、スポーツボランティアの会主催のスキーツアーで広島県の大佐スキー場にスキーに行って来ました。
9日の10時に社協に集まって、バスに乗り込みいよいよ出発。大佐には夜中の3時についてまず仮眠をし、朝6時くらいに起きて、スキーウエアーに着がえ、全体で挨拶をしてグループ分けをして、僕の参加グループには、福江に住んでおられる中村さんと、厚狭に住んでおられる泉さんがおられ、その三人に対し多くのボランテイアさんが対応して、上から半分の所まで、普通の車いすや、きらら博のイベントでも使用した海に浮かぶ車椅子「ランデイーズ」で上まで登って滑りました。
僕たち肢体障害者がするスキーは一つの棒に3人(両端にボランテイア、真中に障害者)が持って滑り、普通の人たちがするスキーと仕方が少し違う。鼻を少しすりむいたけど、身体障害者も、少し工夫すれば楽しくすべることができる。これからも僕は、参加したいと思っています。
今回のスキーツアーは大変だったけど、ボランテイアさんがよくして下さいました。皆さん 本当にお世話になりました。
去る3月15日に下関市社会福祉協議会主催で行われた、ボランティア講習会に参加しました。その中で講演をされた百田さんとは、以前、第1回全国障害者スポーツ大会に同じ県代表選手として参加していたので知っていました。現在、山口県ボランティア振興財団に勤務され、又、車いすの広報マンとして障害者から見た色んな視線、角度から写真を取り続けておられ、講演会では主にスライドを映しながら話してくれました。
ある駐車場で、点字ブロックの上に車のタイヤが覆っている事があり、止めた本人には悪気は無くとも、盲人の方には非常に迷惑なことであったり、身障者用のトイレによく行くと、健常者の人達が入っている事が多く、その為に本当に必要な人が使えない場合が有るし、色んなスロープが有るのに健常者が邪魔をしているのではないだろうか?健常者の人達にも理解してもらい、ボランティア精神を出してくれる事で、住み良い街、社会を作りたいと願い、この題名を付けたんだと思います。
私は、いろんな沢山の写真や話を聞く内に、以前私に百田さんは「僕は、男は撮らんの!女しか撮らんの」と冗談?で言っていたけれど、百田さんの様に障害があっても色んな所へ行き、写真を撮り、思っている事を皆に伝えるのは素晴らしいと思うし、これこそが名カメラマンだなと思い、今回のことは、いろんな面で勉強になりました。
私はピアで働けるようになったからではないのですが、私と同じく体の不自由な方の手助けをして行きたいという気持ちに変わりました。今から書くような言い方をしては・・・と思いますが書かせてください。
一般の人(健常者)は本当に体の不自由な人の気持ち(どう接してほしい!)というのは分からないと私は思います。だからじゃないけど自分自身もリハビリ病院に通いながら医者が回復は無理と言った体ですが、今年中にはどうにかって思っています。
医者が無理と言った命も今ここにちゃんとあるのですから!1に努力2に努力でやってみます。きっと涙を流す日々が続くと思いますが、自分の努力(涙)が障害者の方の笑顔に変わるなら一生懸命に頑張り、リハビリしながらと思います。
私と同じ体の不自由な人、障害者の方にいいアドバイスを私がしてあげられるならして生きて行きたいと思っています。1日も早くその日が来ればと毎日願っています!※自分に目標を持って頑張ります。